こんばんは。
今日は、皆さんには、きちんと理解して頂きたい事実があります。
それは、28年前の今日何が起きたかを知ることから始めましょう。
皆さんは、1995年3月20日の早朝に、地下鉄で猛毒のサリンを何者かが撒き散らし、それにより駅員を含む、多くの犠牲者が発生した事件を覚えていませんか?
地下鉄サリン事件です。
後に、オウム真理教の組織ぐるみの犯罪だったことが明らかになり、主犯格を含む幹事たちが後に死刑執行されました。
今回の記事では、猛毒のサリンによる犠牲者が医療現場に担ぎ込まれてきた中で何が起きたか?解毒剤のPAMをどうやって全国各地から取り寄せる事ができたかを明らかにしていきたい。
現場で察した人の目利きの凄さ
まず、大量の犠牲者が担ぎ込まれている中で、その犠牲者の様子を見ていた一人の医師は、自身の頭の中でその症状の呈し方を見て、察しがついたかのようにポツリと告げたそうです。
『サリンかもしれない。』
もちろん、このような医師のように、自分が中毒関係に知見がある、または軍医経験があるかでなければ、知識がなかったはずでしょう。
もちろん、重症者の多くが、聖路加国際病院や他の病院に運ばれて、PAMなんかもほとんど、大病院に送られたため、中小病院ではありませんでした。
住友製薬の英断 命を繋いだ新幹線リレー
住友製薬の英断…それは、グループ会社の住友化学が有機リン系農薬を作っており、万が一に備えて解毒剤のPAMを作り置きすることを、グループ会社の責務として、会社全体の総意として、徹底的にPAMの増産をし続けました。
後に、命を繋いだ立役者に、まさかPAMがなりうるなんて、思いもしなかったはずでしょう。
ただしかし、何も住友製薬だけの力だけではどうしようもなかったことです。
一番よく頑張ったのは、全国各地にある医薬品卸です。医薬品卸の社員たちが、それぞれの駅で、自分たちの営業所から持ち込んだPAMを抱えて、東京行きの新幹線に乗り込み、東京に、持ち込んだことは、あまり知られていません。
全国各地の営業所からですから、北は北海道、南は沖縄までありますから、最悪、飛行機✈️で東京まで持ち込む必要がありました。
そういう全国各地から、東京に、大量のPAMが流れ着き、それにより、たくさんの命が繋がりました。
知識を得る事、知識を活用する事が大切。
28年前の今日。
今の皆さんだったら、自分だったら、どう行動するでしょうか?
行動することには、知識を得る事と、知識を活用する事の二つがあります。
知識がない人がほとんどの現場で、自分が経験があって知識があれば、頼られる事になります。知識を持たないことは、今の世の中、犯罪になります。
皆さんも、一人一人が、大切な存在であることを知って頂き、自分たちしかいない場合、どういう状態でも、覚悟をして受け入れなければ、なりません。
医療現場に入るという事は、そういう事だと思い、今後とも宜しく頼みます。